(のうちかいかく)
【現代】
第二次世界大戦後、政府が昭和21(1946)年6月の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の勧告を基に地主制土地所有から自作農制土地所有への改革を進めた第二次農地改革を指す。それは、不在地主のすべての貸付地、在村地主の小作地1ha(北海道4ha)を超える部分および自・小作地あわせて3ha(北海道は12ha)を超えた部分の小作地を買収して小作人に売り渡すものであった。それらは、各市町村農地委員会が買収・売渡の計画を作成し、都道府県農地委員会の承認を得た後、知事によって手続きが行われた。市町村農地委員会委員は、小作農・地主・自作農から昭和21年12月に選挙で選出された。豊田市の平地農村の場合、農地委員会委員長の選出は県内他市町と異なり、小作農を中心としたものの、地主層の力の強かった挙母町では農民組合が農地解放の運動に取り組むまで、他村より買収が進展しなかった。ただ、買収農地の売り渡しがおおむね終了した昭和25年に、自作農と自小作農を合わせた割合は、最も低い挙母町でも83.2%になり、自作農創設という目的は達成された一方で、0.5ha未満の零細農家が昭和21年と比べて、挙母町で増えたように、日本農業の零細性は残されたままであった。政府は、農地改革の成果を維持するため、昭和27年7月に農地法を「農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当であると認めて、(中略)耕作者の地位の安定と農業生産力の増進とを図ることを目的(第1条)」として制定した。しかし、「耕作者=所有者」という自作農主義の理念の下、高度経済成長期以降の離農や兼業化の進展によって、農地法で想定されていない請負耕作や農業の担い手として農業生産組織等が現れ、農地法は農地流動化や農地の利用集積を促進する方向で改正されていった。豊田市は、急速な工業化の中で、水稲作の集団栽培に端を発する地域組織化から農業生産組織、農業生産法人等へ農地の利用を集積する地域的対応をみせ、これら農地法の改正を先取りした。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻26ページ