濃尾地震

 

(のうびじしん)

【自然】

明治24(1891)年に発生した濃尾地震の規模はマグニチュード8.0であり、内陸直下型地震としては最大規模の地震であった。震域は宮城以北を除いた国内の広範囲で強い震動を感じ、中部~近畿の大部分で震度5~6以上、市域の震度は5程度と推定されている。市域での家屋倒壊など甚大な被害の報告はないが、挙母と梅坪の矢作川沿いの低地において、亀裂から水砂(青白色の細かな砂)が噴出した箇所が所々あり、噴出は10分間程度あったとされている。名古屋市では、煉瓦造の名古屋郵便電話局が全壊し、同様に煉瓦造の尾張紡績工場も崩れ38人が死亡、114人が負傷した。噴砂を伴う液状化や堤防の破損、溜池の破堤、亀裂、地割れなどが名古屋市域の各所で生じた。猫ヶ洞の大溜池の堤防が崩壊し、一時人家、耕地数10haに浸水し、下流の田代村では人家1棟が流失した。本地震における住家被害は、震源の直上と断層の延長部や近接地域で大きなものとなった。特に岐阜県本巣郡や揖斐郡、愛知県の尾張北西部地域などでの住家全壊率は軒並み80%以上で100%の地域も存在する。この地震によって、岐阜県本巣市水鳥から北西~南東方向に約80kmに渡って地表地震断層が出現した。地震を引き起こした活断層は、北から温見断層、根尾谷断層、梅原断層であり、本巣市根尾水鳥では北東側が約6m隆起し、2mの左横ずれが見られた。本巣市根尾中地区では8mの左横ずれを生じた。根尾谷断層の変位は極めて大きく、規模の大きな地震であったことがわかる。

『新修豊田市史』関係箇所:23巻665ページ

【近代】

19世紀半ばには、信濃善光寺地震(弘化4〈1847〉年)、伊賀国上野地震(安政元〈1854〉年)、東海地震(同)、江戸地震(安政2年)と、大きな地震が連続して起きていた。また明治20年代に入ってからも地震が頻発した。熊本地震(明治22年)、濃尾地震、東京地震(明治27年)、出羽庄内地震(同)、明治三陸地震(29年)、陸羽地震(同)である。明治三陸地震は推定マグニチュード8.2の海溝型地震で、三陸沿岸を津波が襲い、犠牲者は2万人を超えた。濃尾地震はこれに次ぐ被災状況をみせた。岐阜・愛知両県を中心に死者7200人余り、負傷者1万7000人余り、全壊家屋14万戸余り、半壊家屋8万戸余りという大被害を出した。愛知県内では尾張西部や西北部(中島・西春日井・葉栗の各郡)、名古屋市などで家屋の倒壊、堤防の破損、田畑の損壊など深刻な被害をもたらした。三河各郡の被害も死傷者50人余り、家屋の全半壊3200戸余りに及んだ。東西加茂郡では死傷者はなく、西加茂郡挙母村では石灯籠・石碑の転倒が多くあり、地割れや湧水の減少もみられた。また矢作川の堤防損壊もあった。東加茂郡でも被害はほとんどなかったが、小川村や大沼村では道路や橋梁に損壊が生じ、復旧工事が行われた。市域の小学校が所蔵する学校日誌には濃尾地震に関する記述も多くある。竹村小学校の校舎倒壊、加納小学校の壁や瓦の剥落などもあり、また施設に被害がない小学校でも臨時休校となることがあった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻295ページ、12巻423・455ページ