(のじんじゃほんでん・はいでん)
【建築】
野口町(石野地区)。現本殿は棟札により宝永2(1705)年の再建である。本殿(写真)は一間社流造で、桁行5尺5寸、梁間4尺5寸、庇の奥行4尺4寸とし、屋根は杮葺、軒は正面が二軒繁垂木、背面が一軒繁垂木。妻飾は虹梁大瓶束で、束上に大斗実肘木を置いて化粧棟木を受ける。破風の拝みと降りに蕪懸魚を吊る。身舎の正側三方には刎高欄付の濡縁を廻らし、正面では逆蓮頭の親柱を立てて登高欄を付した木階5級を設ける。両側面の縁後端には脇障子を立てる。庇柱は面取角柱で、柱間に頭貫虹梁を入れ、端に木鼻を出す。柱上では連三斗を載せ、中備に透かし蟇股を入れ、斗栱背面の海老虹梁で身舎柱との間を繋ぐ。身舎柱は粽付円柱で、柱間に縁長押・内法長押・頭貫を廻らし、柱上に出三斗を載せる。頭貫端には正面を除いて木鼻を出す。内法長押は、正面柱位置で枕捌きとして内方へ入り込ませ、1尺8寸ほど奥に設けられた内陣正面の柱筋まで廻らす。内陣正面では半円柱を立て、縁長押・敷居・内法長押を通して、柱に小脇羽目を打ち、幣軸で両開き板唐戸を吊る。なお、本殿に彩色は施されていない。本殿は中規模の一間社流造で、身舎の前半に正面を開放した入込み部分を設ける構成をとる。装飾も全体に控えめで、古式を留めている。拝殿は、桁行4間(24尺3寸)、梁間3間(15尺2寸)、入母屋造、妻入で、屋根は瓦形鉄板葺である。拝殿は、軒の出も深く、蟇股や笈形、懸魚の鰭などの彫刻も派手で、虹梁も多用し豪奢である。様式から江戸時代末期から明治初期頃の建築と推察される。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻217ページ