(のりさだやくしょ)
【近世】
旗本鈴木家が知行所支配のために則定村に置いた役所。九久平役所鈴木家・酒呑役所鈴木家と同族。初代鈴木重政は徳川家康に弟政勝(信光)・康政とともに仕え、永禄2(1559)年に戦死した。家康は、重政弟政勝に幼い重政嫡子重次の養育を命じた。成長した重次は、慶長5(1600)年に召し出され、関ヶ原の戦い後、旧領則定村付近で知行500石を与えられた。重次の長子重三が隠居・出家して鈴木正三と名乗ったため、重次の跡は三男重成が継いだ。以後、重祐・祐政・政成・庶政・和政・寧政・善政(政善とも伝わる)・重備と続き明治維新を迎えた。則定村役所は土塀に鉄砲狭間が設けられるなど軍事色の強い施設であることから、七里街道(足助街道)守衛の役割を帯びていたとの説がある。役所は文化元(1804)年頃には無住となり、以後一時期陣屋守が置かれたこともあったが、それ以外の時期は則定村庄屋や山廻りなどにより管理された。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻71ページ