墓       

 

(はか)

【民俗】〈人の一生〉

石塔はもともとは供養塔で、一般庶民が建てるようになるのは元禄期以降である。近世の石塔は個人か夫婦単位のものが多く、「○○家先祖代々」の石塔は家制度が法的に確立してから登場した。羽布や神殿(下山地区)など、市域山間部では各家のセドかその前に石塔を建てる屋敷墓の形態をとったところが多く、明治政府の墓埋政策下では石塔の場所に埋葬された。羽布では穴掘りの際に出てきた石を、石塔が建つまで目印に使ったという。屋敷墓は政策的に認められなくなり、共同墓地(新墓)が作られるが、黒田(稲武地区)の古い家は屋敷墓(旧墓)も持ち、2か所に墓参りをしていた。埋葬地(埋め墓)と石塔を建てる場所(詣り墓)が別の墓制を両墓制と呼び、猿投地区や保見地区、旭地区などでみられた。広幡(保見地区)では遺体はイケハカと呼ばれるところに埋めたが、ここには何もなくて墓参りもせず、石塔はヒキハカと呼ばれる別の場所に建てていた。保見(保見地区)でも石塔の場とは別にオオハカと呼ばれたところに埋葬したが、家ごとに場所が決まっているわけではなく、適当に埋めたという。篠原(保見地区)の埋葬地は家ごとに割り当てられ、土饅頭の上には葬具が並んだ。四十九日が済むと葬具を片付け、小松を植えたが、石塔は別にあり、墓参りは2か所に行った。両墓制がとられた理由として、死のケガレを埋め墓で浄化した後、詣り墓に改葬し、そこで供養をしたものという説がある。浅谷(旭地区)の事例はその典型で、遺体は新墓という共同墓地に埋葬して改葬までの間はここで供養し、3年か7年で掘り返して改葬をした。改葬のことを「ヒク」「ヒキハカする」といい、頭骨を袋に入れて持ち帰り、屋敷のそばの石塔のある墓に移した。実際には土や枕石を移して済ませることもあった。真宗門徒の多いムラでは石塔を建てなかったところもあり、中根(高岡地区)では、代わりに松の木を植えたという。〈人の一生〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻670ページ、16巻613ページ