(はたさく)
【民俗】〈農業〉
畑地は、地区を問わず屋敷地近くに設けられることが多く、これらをヤシキバタ(屋敷畑 写真)と呼んでいる。屋敷地から離れた畑はヤマノハタ、シモノハタなど、その立地形態によって呼ばれるのが一般的である。ヤマノハタはツネバタ(常畑。常時耕作している畑)ではないこともあり、山間部ではヤマノハタが焼き畑に使われることもあった。耕地を田んぼとするか畑地とするかは、その立地、水利の条件、土壌などによって決まった。水に乏しく、痩せた耕土(砂地や赤土)の場所は畑とするしかなく、市域山間部や平野部の丘陵地域では畑作主体の農業が行われていたところもある。矢作川流域など平野部ではスナジ(砂地)土壌が多く、大根などの根菜類栽培に適していた。野見(高橋地区)のフクジ(水の便の良い耕地)の土質はマサゴズナといい、根の深い根菜類には向いていたが、サツマイモやスイカには向かなかったという。また、平野部でカンジ(乾地)と呼ばれる土地は台地上の水源に乏しい場所であり、おおむね畑作地となった。市域平野部では戦後にほ場整備が進み、畑作地の水田化が進んだ。痩せた土壌の畑地では、開墾当初はろくな作物が育たなかったが、施肥や土入れを繰り返して耕土が育っていった。昭和20年代以前は、桑の葉以外の商品作物を作る家は少なく、畑には主に自家で消費する蔬菜類を作付けしていた。各地区で昭和30年代に栽培されていた主な畑作物としては、根菜類では大根、ニンジン、ゴボウ、カブ、生姜、果菜類ではナス、キュウリ、トマト、カボチャ、トウガラシなどが聞かれる。トマトは戦後に増えた作物である。葉菜類では白菜、キャベツ、シソ、茎菜類ではネギ、タマネギなどが聞かれる。豆類では各種大豆類、テンジクマメ、穀類では麦類、雑穀、サトウキビ、トウモロコシ、イモ類はサツマイモ、ジャガイモが栽培された。ジャガイモは戦後盛んになったものである。一部地域では、畑地に果樹が多く植えられ、平野部ではスイカが戦後に盛んになった。また、養蚕が盛んだった頃は、どの地区でも桑を多く作付けしていた。平野部の丘陵地は、開墾可能なところはすべて桑畑だったといい、桑の畝間で野菜を作るなどの工夫をしていた。昭和30年代以降、桑のほか、アワ、キビ、ソバといった雑穀や麦の栽培事例は次第になくなっていった。商品作物としては綿花、タバコ葉、大根(切干・漬物用)、大豆(桝塚味噌に出荷)、お茶、高原野菜などの栽培事例が聞かれる。綿花は戦後に急速に衰退し、現在はほとんどみられない。タバコ葉も昭和20~30年代に一時期盛んになったが、現在は衰退している。高岡・上郷・猿投地区などの丘陵地は古くからお茶どころとして知られ、山間部では冬に茶摘みをする寒茶の栽培が盛んであり、現在も生産する家が残っている。〈農業〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻95ページ、16巻42・115ページ、17巻445ページ