(はちまんぐうほんでん・そとはいでん・みこしでん)
【建築】
社町(高橋地区)。寺部八幡宮。創立は平安時代にさかのぼり、高橋氏が石清水八幡宮を勧請したことに始まるという。近世に入り、渡辺半蔵守綱が領主となって以降、渡辺家代々の祈願所となった。本殿の建立年代は、床下の墨書により元禄2(1689)年に再建されたものと考えられる。本殿は三間社流造(写真)、屋根は銅板葺(もと檜皮葺)、軒は二軒吹寄垂木(中古の改造)。規模は桁行3間(12尺4寸)、梁間1間(6尺5寸)の身舎の前方に奥行1間(4尺7寸)の庇を付す。妻飾は虹梁上に豕扠首を組んで、大斗実肘木を載せる。破風の拝みと降り、庇の桁隠しに猪目懸魚を吊る。身舎の正側三方には刎高欄付の切目縁を付け、側面の縁後端に脇障子を立て、縁正面には木階5級を設ける。身舎柱は面取角柱で、柱間は縁長押・内法長押・頭貫で固め、頭貫端を木鼻として出す。柱上には拳鼻付の大斗実肘木を載せる。身舎正面の柱間3間では方立・小脇羽目を組んで板唐戸を構え、両側面の板壁にはそれぞれ太陽と月を表す大きな円が描かれている。庇では面取角柱を用い、柱間に頭貫虹梁を入れ、端に木鼻を出す。柱上には両端に連三斗、中2本に拳鼻付の平三斗を載せ、両端の斗栱背面からは身舎へ海老虹梁が架けられる。なお、軸部には朱塗りが施され、壁面等に胡粉が塗られている。外拝殿の建立年代は様式等から江戸時代末期から明治初頭頃と推定される。外拝殿は入母屋造、桟瓦葺、妻入で、軒は一軒半繁垂木。妻飾は虹梁大瓶束・笈形付とする。桁行1間(16尺)、梁間5間(32尺)で、柱は面取角柱とする。正面と背面および両側面の中央の柱間には無目敷居と内法虹梁を入れ、この間を開放とし、その他の柱間(両側面の中央間以外)には無目の中敷居と内法貫を入れ、この間を吹き放しの窓とする。なお、内法貫は中央柱間の虹梁よりも一段低い位置に入れる。床は板敷き、天井は棹縁天井とする。神輿殿の建立年代は、宝暦4(1754)年の8代綱通の代の造立棟札が残るが、現存する神輿殿は様式的に江戸時代後期に再建されたものと考えられる。神輿殿は入母屋造、桟瓦葺、妻入、軒は一軒半繁垂木。妻飾は木連格子。1間(12尺)四方の正方形平面で、四周に縁を付ける。柱は面取角柱で、柱間に無目敷居と内法虹梁を入れ、直接桁を載せる。敷居と内法虹梁間は四面とも開放され、内法虹梁上の中央には蟇股を置く。この蟇股の中央部には渡辺家の家紋の彫刻が施されている。床は板敷き、天井は棹縁天井である。社殿配置は、妻入縦長の外拝殿の後方に正方形の神輿殿を配し、その奥に神門と透塀を設け、さらにその奥に内拝殿と幣殿を配して最奥に本殿を構えている。この配置は猿投神社に類似したものであり、挙母神社や灰宝神社にもこの社殿配置がみられる。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻206ページ