(はちまんしゃほんでん)
【建築】
桑田和町(足助地区)。現在の本殿は、床下に棟札が打ち付けてあり、元文5(1740)年の建立であることが知られる。年記のほか、当字氏子鈴木忠左ヱ門、大工三州宝飯郡牛久保(現豊川市)玉田善左門・長谷川幸七郎の名が記されている。本殿は一間社流造、屋根は鉄板葺(もと杮葺もしくは檜皮葺)である。軒は一軒繁垂木で、妻飾は虹梁大瓶束・笈形付とし、束上に大斗実肘木(大斗上に拳鼻)を置いて化粧棟木を受ける。破風の拝みと降りに蕪懸魚を吊り、屋根には箱棟を載せ、両端に鳥衾付の鬼板を置く。身舎柱は円柱で、土台上に立つ。柱間には縁長押と頭貫を廻らし、頭貫端に木鼻を出す。内法長押は背面および側面に通し、正面で枕捌きに納めて内方へ廻らす。柱上には出三斗を載せ、桁行の螻羽方向へは連三斗を出す。中備は正面と側面に蟇股を置く。身舎正面では無目敷居と頭貫を入れて柱間を開放する。ここから1尺8寸奥まった内陣正面では、戸口を3間として両開き板唐戸を吊る。身舎の正側三方には擬宝珠高欄付の縁を廻らし、側面の縁後端に脇障子を立て、縁正面には登高欄付の木階5級を設ける。庇柱は面取角柱で、柱間に頭貫虹梁を入れ、端に木鼻を出す。柱上には連三斗を載せ、斗栱背面には手挟を入れる。中備は蟇股を配す。この本殿は全体に朱塗りが施され、手挟・木鼻・笈形・肘木等に胡粉、懸魚・高欄・土台等に黒墨が施されている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻242ページ