(ばっし)
【考古】
抜歯は、ヒトの健康な歯を抜き去る社会的な風習で、主として縄文時代から弥生時代初期に流行した。世界的にもアジア・アメリカ・太平洋諸島の各地で確認される風習で、施行理由としては、成人・結婚といった通過儀礼に基づく場合のほか、喪に服すためや刑罰の場合もあるとされる。抜き取られる歯には時代・時期や地域により傾向があったと考えられており、抜歯型式などとしてまとめられている。日本列島では、後期旧石器時代や縄文時代前期の人骨の下顎門歯(切歯)にわずかながら抜歯の痕跡があるともいわれているが、散発的である。縄文時代中期末から東北地域で上顎門歯を抜く抜歯風習が始まり、関東地域では後期中葉に上顎犬歯を、後期後葉には下顎犬歯をも抜くようになる。同時に抜歯風習は西日本地域にも広がり、弥生時代にかけて盛行したとみられている。春成秀爾の抜歯研究によると、日本先史時代の抜歯風習には上顎両犬歯を抜くことに特徴があるとされ、これを0型と分類している。加えて、下顎犬歯を抜く2C型と下顎中切歯2本を抜く2C2I型を犬歯系(2C系)とし、一方、下顎切歯を抜く4I型とそれに加えて下顎の犬歯2本をも抜く4I2C型を切歯系(4I系)と分類して、文化人類学の半族(moiety)に対応する社会出自集団が想定されている。近年、人骨の年代測定と炭素・窒素安定同位体比分析による研究の進展により、抜歯が認められる人骨の年代についても検証が進められている。県内の縄文時代後・晩期の貝塚から出土した埋葬人骨では、抜歯の施行率が極めて高いうえに特殊な立場のヒトには叉状研歯と呼ばれる歯牙風習も施されたことが確認されている。市内では、足助地区の木用遺跡から抜歯痕のある人骨が見つかっており、抜歯風習が三河山間部でも盛行していたことがうかがい知れる。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻126ページ、18巻272ページ