(はなぞのむらねんぐまかないそうどう)
【近世】
天保10(1839)年、花園村百姓が駿河国沼津藩大浜役所への年貢納入に際して同村地主の代替業務を担っている現状を改善し、地主自らが業務負担を行うよう訴えたところから発した騒動。花園村では従来、領主御蔵への年貢運び入れと蔵米管理は地主分も含め村方百姓が行っていたが、本来であれば年貢名義人の地主も業務を負担すべきであった。その意味で小前の申し分は正当なものであったが、小前の地主を脅すような物言いと徒党を組むような行動様式が問題視され、さらには加茂一揆から日が浅かったことなどから、領主側からは厳しい対応(=咎め)を受けることとなった。同村名主は謹慎、組頭以下24人が「手鎖」などの処分に処せられ、行政的には五人組を単位とした法令遵守義務がうたわれ、百姓同士仲良くするよう指示が出されたのである。一方、寺田伝兵衛家をはじめとした6人の地主の年貢米納入方法は従来通りとされたが、蔵米納入後の御蔵での管理費、蔵米津出し賃銭などはきちんと負担することも示された。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻562ページ