(はやかわりゅうすけ)
【近代】
嘉永6(1853)年8月12日碧海郡中島村(現岡崎市)に早川藤太夫の長男として生まれる。明治9(1876)年地租改正委員、明治12年愛知県会議員となり、愛知県会副議長などを歴任した。三河分県運動は三河全体を統合して成立した額田県を尾張中心の愛知県から独立させる運動であったが、早川は今井磯一郎とともにその指導者であった。明治22年三河分県の調査委員となり、同年に設立された三河分県を掲げた興参協会の発起人も務め、三河分県運動の機関誌『三河旬報』にも寄稿している。明治23年の第1回衆議院議員選挙で愛知県第8区(碧海郡・幡豆郡)から候補者となり、自由民権運動の指導者内藤魯一を破って当選した。その後も、早川は第2・4・6・7・8・10・11・12・14回選挙で当選し、衆議院議員として10選を果たした。早川は第一議会では、保守系・無所属を含む大成会に所属し、その後も中央交渉部-国民協会-帝国党と政府に近い吏党に所属した。だが、明治33年に伊藤博文が立憲政友会を結成するとこれに参加する。大正2(1913)年桂太郎が新党(立憲同志会)設立を発表すると、愛知県選出の政友会衆議院議員でただ一人新党参加を表明し、政友会から除名された。その後は立憲同志会、憲政会に所属する一方、碧海郡六ツ美村長も務めた。昭和8(1933)年9月22日、80歳で死去。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻87・201ページ