(はやしいたろう(かくりょう))
【近世】
幕末の幕府役人・漢学者。実名は戇、字は長孺、通称は鉄蔵·伊太郎。鶴梁は号の一つ。上野国群馬郡萩原村の豪農西川氏の子で、御家人株を買い林姓を名乗った。その後、勘定方として召し出され旗本に列する。以降、小十人組、甲府徽典館学頭出役、新御番を歴任、嘉永6(1853)年に中泉代官、安政5(1858)年に羽州柴橋代官に転じる。文久2(1862)年に御納戸頭に進み加増され知行700石となる。同3年9月に新徴組支配となるも11月に免じられる。翌月、学問所頭取となるが、元治元(1864)年に御役御免となり、明治元(1868)年に致仕(職を辞して隠居すること)。彼が書いた日記が天保14(1843)年から文久元年分まで遺されており、中泉代官として嘉永6年、同7年、安政2年に三河・遠江を巡見した記述がみられる。市内には安政2年に足を運んでいる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻108ページ