原田重吉  1868~1938

 

(はらだじゅうきち)

【近代】

明治元(1868)年10月加茂郡日明村の農家に生まれる。明治21年徴兵検査に合格し、豊橋の第18連隊に入隊し、3年の現役生活を終えた。明治27年8月日清戦争が始まると、後備兵召集に応じ、第18連隊第2大隊第6中隊の歩兵一等卒として従軍した。9月の平壌の戦いでは、第18連隊の各部隊は北方から平壌城を攻撃したが、原田が属する第6中隊は玄武門の開門に成功し、平壌攻略のきっかけをつくる戦功をあげた。原田の玄武門での活躍は「征清勇士」の代表として新聞・雑誌で大々的に報じられ、国民の戦争熱をあおることになった。また数多くの忠勇伝で特筆され、戦争芝居や錦絵、軍歌のなかで勇猛ぶりが讃えられていった。凱旋した原田は旅役者の一座に加わって、玄武門一番乗りの芝居を自演して各地を興行した。玄武門の芝居は各地で喝采を受け、絶大な人気を誇ったという。役者を辞めてからは郷里で米麦の増産に努め、新肥料を作って農会などから表彰されたといい、「東加茂郡きつての篤農家」と評された。昭和43(1968)年9月東加茂郡松平町の有志が明治百年記念事業として「原田十吉翁之碑」(写真)を日明に建立した。地元では原田の名は「重吉」ではなく「十吉」と表記されている。


『新修豊田市史』関係箇所:10巻175ページ