(はんせいかいかく)
【近世】
年貢米を中心とした現物貢租を財政基盤とする大名財政は、18世紀半ば以降、幕府勤役や災害対応などで増大する歳出を賄うことが次第に困難となってくる。財政赤字に陥った多くの藩では、倹約や家臣団への給付削減、人材登用による金融市場からの資金調達や特産物の専売化など、財政危機の克服を図る藩政改革への取り組みが行われた。寛延2(1749)年、上野国安中から移封された挙母藩内藤家は、知行高に比して年貢収納が減少したとの評もあり、財政難に苦しむこととなる。入封時、幕府から4000両を拝領して築城に着手するが、財政方針や教学をめぐる藩内抗争、年貢増徴と築城夫役負担への抵抗である江戸藩邸への百姓強訴(芋八騒動)などが起き、築城は遷延する。さらに、度重なる矢作川水害の影響による年貢収入の減少に加え、樹木台への築城や城下移転も図らねばならず、藩財政は悪化の一途をたどっていった。逼迫する藩財政に対し、藩領内からの調達や藩主実家の紀州藩などからの支援金、幕府拝借金、国役普請金、大坂加番役による合力米、江戸や大坂商人からの借財のほか、安永4(1775)年以降は繰り返し倹約仕法を実施し、徹底した緊縮財政と藩士給与の削減が行われていく。資金調達を含む財政担当能力を期待し、登用されたのが江戸出自の津村喜澄である。その養子で江戸留守居となった吉徳は、遊所での大判振る舞いで幕府大目付に譴責処分をうけるも、財政に通じた手腕を買われ文化3(1806)年には年寄となる。しかし、藩の負債が転嫁された家臣の困窮度が増すなか、文政3(1820)年正月、藩儒竹村悔斎により吉徳が殺害される事件が起きている。財政に起因する藩内抗争は、刺殺事件という形で重臣の排除に結果したが、根底にある問題は何ら解決せず、とりわけ天明・天保飢饉は大きな打撃となった。根治策として、天保12(1841)年改革仕法では、藩の機構自体をスリム化し、公務費用、藩主家の経費、家臣俸禄などの大幅削減が行われている。しかし、嘉永3(1850)年には、1万両前後の財政規模にもかかわらず年6000両ほども不足があり、借財は累積5万両余りに及んでおり、外圧の高まりによる新たな支出増大への対応にも迫られながら、幕末を迎えることになる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻478ページ