備荒貯蓄

 

(びこうちょちく)

【近代】

飢饉や災害に備え、あらかじめ米銭などを貯えておくこと。古代には義倉があったが、律令制の衰退とともにすたれた。近世になると、幕府や藩、あるいは民間で行われていく。特に天明の飢饉以降、幕府や藩は町村に貯穀を奨励するようになり、市域でも天保の飢饉後、稲橋村名主の古橋暉皃が積極的に貯穀を行っている。こうした貯穀の必要性は明治維新後も共有され続け、特に1880年代には、政府・府県・郡・町村の各レベルで凶荒対策が講じられた。東加茂郡では、明治13(1880)年に郡長辻左右が蓄穀概則を制定し、村々で貯金・貯穀が進められるとともに、明治18年には勤倹と貯蓄に関する村規約の基準が郡役所から村々に示され、各村では村の事情を反映した規約が制定された。こうした背景には、松方デフレによる深刻な経済不況の影響とともに、飢饉が30年もしくは50年ごとに繰り返して起こるという当時の歴史意識があった。写真は、明治37年日露戦争時の備蓄米(古橋懐古館蔵)。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻470ページ、4巻78ページ

→ 古橋暉皃