分一番所

 

(ぶいちばんしょ)

【近世】

河川や陸路で流通する物資に値段の10分の1など一定割合の課税を徴収する番所のことをいう。この課税を分一運上といい、矢作川の分一番所は寛永末年に東広瀬村(石野地区)に設けられ、享保3(1718)年7月に矢作川と巴川の合流点に位置する細川村(岡崎市)に移された。巴川沿いの九久平土場(松平地区)での薪炭切木の売買が享保6年頃からはじまったとされ、巴川の流通を注目しての移設と考えられる。当初は材木類のみを対象としたようであるが、後には川を下る米以外の物資も対象となった。東三河の豊川にも東上(新城市)に分一番所があり、細川分一番所とともに入札による委任で分一運上の取立てをする請負制であった。陸路を通る商品荷物からの分一取立ては陸分一番所が行った。設置時期は不明だが、細川村への分一番所移転と同じ年の享保3年に、当時の幕府代官岩室伊右衛門によって足助街道沿いの桑原村(岡崎市)に設置された。明和7(1770)、8年頃に、足助街道沿いの岡崎近くの蔵前村(岡崎市)に一時設置された。安永7(1778)年には分一番所の請負人が足助に南接する近岡村に新規番所を設けて分一運上の取立てをしようとする動きがあったが、伊那街道を通る中馬や三州馬が通らなくなることを懸念したため実現しなかった。天明2(1782)年に足助街道沿いの桑原村大沢に陸荷分一番所が移転し、以後幕末まで続いた。分一番所は分一運上金の取立てのほかに、川触を出し、水運管理の役割があった。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻438ページ