(フォスコ・マライーニ)
【近代】
文化人類学者、日本研究者。イタリア・フィレンツェ生れ。昭和13(1938)年、日本国際学友会の外国人研究者奨学金資格を取得し、アイヌ文化研究のため、北海道帝国大学に留学。一家で札幌に移り住む。宮澤・レーン事件で知られる宮澤弘幸およびハロンド・レーン、ポーリン・レーン夫妻との交流もあった。昭和16年、イタリア語教師として京都帝国大学に着任。イタリア降伏直後の昭和18年5月、妻と3人の娘とともに敵国外国人として天白村の天白寮に強制収容され、特別高等警察に監視される。天白寮では、特高警察への抗議の意思を示すため、自らの左手小指を斧で切り落とした。昭和20年5月頃、10数人のイタリア人に混じって、一家は東広瀬の廣済寺に移送され、8月末頃まで収容。廣済寺での待遇は天白寮よりも格段に安心のできるものであった(写真)。日本の敗戦後、昭和21年に帰国。フィレンツェ大学で日本語・日本文学科創設に関わり、日伊文化交流に貢献した。昭和29年、再来日中に廣済寺を訪れ、住職と再会。昭和57年、日本政府から勲三等旭日中綬章受章。フォスコの遺言により、その遺髪と爪の一部は、廣済寺の墓地に納められた。『海女の島』、『随筆日本』など著書多数。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻715ページ