(ふくまんじほんどう)
【建築】
金谷町(挙母地区)。当寺は、浄土宗総本山知恩院の直末である。元禄4(1691)年に洞泉寺14世良念が創立して開山となり、同13年8月には堂宇も整えられたとされる。正徳年間(1711~16)に宗歓が関東から入寺して3世となり、正徳4(1714)年に田地山福満寺の寺号を得ている。6世定阿恵舟は洞泉寺16世であったが、当寺に22年間在住する間に寺観を整えて再興したという。12世中誉弁碩は浄土宗捨世派の拠点とされる京都東山獅子ヶ谷法然院の専修念仏に傾倒すると、高名な僧侶として多くの帰依者を得て、岡崎随念寺15世中興達源より現本尊仏を寄贈され、現本堂はこの本尊仏を納めるために建てられたとされる。この本堂の虹梁等の絵様の様式から判断して、18世紀後期の建立とみられ、本尊を拝領した頃と一致する。鐘楼は明治30年頃の建立である。本堂は、桁行7間(実長7間半)、梁間3間(実長5間)、寄棟造、桟瓦葺、妻入り、一間向拝付、南面建ちである。堂内は、外陣では30畳の1つ空間とし、棹縁天井を張り、両側面では敷鴨居、内法長押を通して引違い戸を入れ、内法上を小壁とする。脇の間は、間口一間とする通路のような細い空間とされ、前面では敷鴨居、内法長押を通し、内法上小壁とし、当初は建具を入れていた。内部は、手前二間(四畳)までを外陣の床と同高とし、この奥では蹴込板、無目敷居を用いて床を上段とし、三畳を造り、その奥に幅半間の板敷、さらに奥に位牌壇を設けている。この脇の間は、床の高低差が変化するものの棹縁天井を一面に張っている。内陣は、正側面の柱間に蹴込板、無目敷居を通して床を一段高め、前面では柱間一間に実長三間の大虹梁を頭貫の位置に渡し、大きな開口を造り、台輪を渡し、三分点に長細い拳鼻付の平三斗を置いている。内部では、中央後方に間口二間、奥行一間半となる四本柱の構成とし、四方に框を通して床高を上げ、柱上では頭貫(端木鼻)、台輪を廻らし、柱頂に出三ツ斗を配し、中備に詰組を入れ、上部に折上格天井を上げている。四本柱の中央には蓮華座を設けて本尊を安置しており、本尊仏は半丈六の阿弥陀如来坐像であり、一般の仏像より一回り大きい。また、床は四本柱を除いて畳敷きとし、両側面では敷居、鴨居、内法長押を通し、白漆喰壁を塗っている。このように、当寺は近世浄土宗の中でも捨世派と呼ばれる寺院であり、建築的には妻入りの長方形平面、外陣を浅く、脇の間の間口を狭くして内陣を大きくとり、内陣の彩色荘厳を控え、本尊を半丈六の阿弥陀如来坐像を安置するなど、この建物は捨世派本堂の特徴を備えている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻18ページ