普賢院本堂・庫裏

 

(ふげんいんほんどう・くり)

【建築】

押井町(旭地区)。普賢院は江戸時代後期まで龍雲山二井寺と呼ばれた天台宗の古刹で、寺伝では白鳳時代の創建と伝えられる。現在の普賢院の寺号は宝永年間(1704~11)の住職であった長海の私号であったとされる。明治15(1882)年の『愛知県地名集覧』には、仁王堂・大蔵郷・三蔵屋敷・密蔵坊・西ノ坊・大仙坊・金剛坊・毘沙門坂など仏堂伽藍にちなむ小字名が周辺地域に伝えられており、山内に諸堂が建ち並ぶ密教の山岳伽藍を有していたことが窺える。最盛期には僧坊12舎を構えた一大道場であったという。現本堂(写真)の建立年代は棟札が残されており、龍雲山二井寺現住圓隆の代、文化11(1814)年の再建であることが知られる。大工棟梁は地元大坪村(旭地区)の安藤長右ヱ門利貞である。本堂は入母屋造、茅葺(鉄板覆)、平入で、軒は一軒半繁垂木とし、南(若干西に振って)を正面として建つ。桁行3間(実長5間半)、梁間5間(実長5間)の主屋の背面と西側面の軒下に奥行約4尺の庇を付し、背面にはさらに奥行4尺の下屋庇を付加している。柱はすべて面取角柱で、斗栱も一切用いない方丈形式の六間取り本堂(客殿)で、正面のみに奥行1間の広縁(入側縁)を設ける。いわゆる密教仏堂とは形式を異にする。往時は二井寺の塔頭・僧坊の一つであったと考えられ、密教寺院の伽藍構成の特色を示す近世の遺構として貴重である。内陣内の厨子も禅宗様を基調とした宮殿型の一間厨子で、近世前期の遺構と考えられ、建築的な質も高い。庫裏は棟札が残されていて、龍雲山二井寺現住亮圓代、文政5(1822)年の建立であることがわかる。大工棟梁は木曽福島の與三吉、同篤右衛門他5人の名が知られる。本堂の西に位置し、棟を南北に通す入母屋造、茅葺(鉄板覆)、妻入の大型庫裏で、桁行実長8間、梁間実長4間の主屋の南面西半と西面南半に桟瓦葺の下屋を付加してオカッテと台所・浴室・脱衣を後補し、北面には亜鉛鉄板葺の下屋を増築して物置と便所を新造している。間取りは前土間二列六室形式で、南端の間口4間、奥行2間半を土間とし、現在は土間内に間仕切りを設けて東西に3分し、中央部分をドマグチとして南面にガラス戸2本を入れて出入口としている。土間上部には座敷境中央に立つ大黒柱から妻側の柱に野梁を架け渡し、この上に梁行の根太を2本載せて竹簀子の天井を張る。土間北側は東列南から奥行2間の下の間、奥行1間半の中の間、奥行2間の上の間を配し、西列には奥行2間のロバタ、奥行2間のナンド、奥行1間半のネマを並べる。下の間は北面を除く柱間に差鴨居を入れ、天井を根太天井とする。ロバタは四周の柱間を差鴨居とし、ナンドでも西面の柱間に差鴨居を入れる。その他の柱間には鴨居を通す。なお、当寺には本堂の手前に茅葺の長屋門形式の山門も残る。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻187ページ