(ふじおかじんじゃほんでん)
【建築】
北一色町(藤岡地区)。創建は、明徳4(1393)年に猿投神社東宮の摂社「御子の宮」を山洞に遷座し、時の東宮神主武田恒家が「八王子宮」と称し、以後、猿投山東方の総鎮守として崇敬されたと伝えている。また、文明5(1473)年の再造営時の棟札には「旧造営者永徳二壬戌年三月二十三日」と記されていたとされ、室町時代の比較的古い創建とみられる。明治5(1872)年に「八柱神社」と改称、大正12(1923)年に現在の藤岡神社と改められた。現本殿の建立は、棟札によって寛文11(1671)年の建立であることが知られ、大工は尾州熱田住藤原朝臣中尾勘右衛門・中尾作十郎・同忠左衛門・同甚五郎・同長次郎と記載されている。本殿は二間社流造、檜皮葺の中型社殿で、南面して建つ。身舎柱は円柱で、四周に縁長押・内法長押を廻らし、柱上に舟肘木を載せる。軒は二軒繁垂木。妻飾は虹梁上に叉首を組んで、大斗実肘木を載せ、化粧棟木を受ける。破風の拝みと降り、庇の桁隠しに蕪懸魚を吊る。身舎正面では、2間とも敷居と鴨居を入れ、方立・小脇羽目を組んで両開き板唐戸を吊る。西側面は中央に角柱を立て、南側の半間は引込み板戸を入れて戸口とする。その他の側背面の柱間は横板壁とする。内部は1室とし、床板を張る。身舎の正側三面には刎高欄付の布目縁を廻し、側面の縁後端に脇障子を立てる。正面中央には擬宝珠柱を立て、登高欄付の木階5級を設ける。庇柱は面取角柱で、柱間に頭貫虹梁を入れ、端に木鼻を出す。柱上には連三斗を載せ、中備に蟇股を置く。身舎柱との間には海老虹梁を渡し、虹梁尻を挿肘木で支える。この本殿は、類例の少ない二間社の遺構であり、斗栱には舟肘木を用い、妻飾も扠首組とし、妻虹梁や海老虹梁にも渦・若葉の彫刻を施さず、全体に簡素で古式な意匠を採用しており、江戸時代前期の様式をよく残している。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻225ページ