藤岡窯

 

(ふじおかよう)

【考古】

13世紀中葉(山茶碗第7型式期)になると、それまでは窯業の伝統のなかった猿投山南東麓の藤岡地区西中山・深見・御作・藤岡飯野・迫の各町周辺に中清田古窯群(西中山町)などの山茶碗窯が構築されて窯業生産がはじまった。以後、同地区では、山茶碗生産から古瀬戸系施釉陶器生産、瀬戸・美濃大窯生産への転換が図られるなどして、16世紀中葉まで連綿として窯業生産が続けられた。これらの窯跡群を、猿投山西南麓古窯跡群(猿投窯)とは区別して「藤岡窯」と総称している。古瀬戸系施釉陶器生産への転換は古瀬戸後期第Ⅲ期後半(15世紀前葉)で、当該期の笹窯(御作町)等の窯構造・焼成器種の一致から、転換に際しては瀬戸窯の生産者の移動・直接指導があったと考えられている。また瀬戸・美濃大窯生産への転換も、大窯第1段階(15世紀後葉~16世紀前葉)の迫町半済寺1号窯の存在から瀬戸・美濃窯と軌を一にしたことが知られ、15世紀前葉以降も瀬戸窯との関係は継続したとみられる。なお、藤岡窯の分布域に猿投神社領の「深見郷」の故地である深見町が含まれること等から、藤岡窯の窯業生産に対して猿投神社の関与が指摘されている。


『新修豊田市史』関係箇所:2巻445・661ページ、20巻246・250ページ

→ 大川ケ原窯猿投山西南麓古窯跡群中清田古窯群