藤原惟康  生没年未詳

 

(ふじわらのこれやす)

【古代・中世】

高橋荘の開発に関わったとされる人物。「大森葛山系図」には「三河国高橋庄領主」と記される。もちろん、系図の扱いには慎重さが必要であり、例えば平安中期の有力貴族であった藤原伊周の子孫と描かれることなどは信頼できない。ただし、惟康自身についての記事は具体的であり、当時の状況とも矛盾しない。それによれば惟康は、11世紀の後半に三河国守の兄の立場を活かして額田郡を開発した藤原季兼の甥であり、幼時にはその庇護下にいたという。彼の妻は白河院に仕えたといい、その皇女の乳母もつとめたとされる。すなわち惟康は、三河の現地では国守の類縁であり、隣接する額田郡の実力者と関係が深く、また妻の縁故から院権力すなわち天皇家とのつながりも得られる立場にあったことになる。こうした条件の下で、彼が高橋荘の開発に関わっていたのであれば、高橋荘が天皇家領荘園であったことも自然な展開といえるであろう。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻200ページ