仏涅槃図

 

(ぶつねはんず)

【美術・工芸】

拘尸那竭羅城の外、跋提河のほとりの沙羅樹の林で、釈迦は身を横たえ最期の時を迎えた。主に『大般涅槃経』の内容に基づきこの折のさまを描くのが仏涅槃図である。仏涅槃図は釈迦の命日とされる陰暦2月15日に行われる涅槃会の本尊として用いられた。応徳3(1086)年制作の金剛峯寺本(和歌山県)応徳涅槃図を最古として平安時代の作例も若干数現存するものの、現存する仏涅槃図のほとんどは鎌倉時代以降のものである。鎌倉時代以降の仏涅槃図の一般的な図様は以下のとおりである。天空の中央に満月の浮かぶ2月15日、画面中央には、頭を左に向けて右わきを下にして宝床に横たわる釈迦が、ひときわ大きく描かれる。宝床の周りには釈迦の死を悼む菩薩、諸天、仏弟子らが集い、画面下部には釈迦の徳を慕う禽獣が控える。釈迦の枕辺に控えるのは釈迦の最後の食事を捧げる純陀、その手前には師との別れに耐えかね失神する仏弟子の阿難と気付けに彼に鉢の水をかける阿那律が描かれる。彼らの背後には四方の沙羅双樹8本が聳え、半ばは釈迦の常住を讃えて花咲き、半ばは無常を示して枯死する。釈迦の枕辺近くの沙羅樹には、旅の釈迦が携えた鉢をくるんだ布包みと杖とが掛けられる。双樹のさらに背後には跋提河の波立つ流れが樹間に垣間見える。上空には釈迦涅槃の報を伝えた阿那律に先導され天上より駆けつける摩耶夫人の一行が『摩訶摩耶経』に基づいて描かれる。こうした涅槃の情景を単独で描く仏涅槃図のほかに、釈迦の誕生以前から涅槃までの諸場面を涅槃場面周囲に小画面で配した仏伝涅槃図(八相涅槃図)や、純陀の食事提供から釈迦の遺骨分けまでの涅槃直近の7場面を涅槃場面周囲に小画面で配した涅槃変相図といった、多場面構成の仏涅槃図も、鎌倉時代以降制作されることがある。市域の現存仏涅槃図は77件を数えるが、その宗派的分布をみると、曹洞宗が45件と最多で、次いで浄土宗が17件と多く、これだけで全体の8割に及ぶ。地域的には猿投、藤岡、小原、足助、旭の5地区で51件と山間部に多く残るが、これは市域の曹洞宗寺院の多くが山間部に展開していることが一因である。制作時期については室町時代以前と推定できるものは長興寺(長興寺)、永澤寺(篠原町)、廣済寺(東広瀬町)、浄國院(小町)、大鷲院(新盛町)の5例にすぎず、残りはすべて江戸時代以降に制作されたものである。これらのうち制作年の判明している最古例は応永28(1421)年制作の長興寺本(長興寺)である。仏伝と組み合わされた仏涅槃図は市域にほとんど伝存しない。わずかに宝暦13(1763)年制作の正壽寺本(黒田町)、文政7(1824)年制作の龍淵寺本(牛地町)の2件が仏伝涅槃図である。

→ 禅宗の絵画長興寺仏涅槃図