(ふるはしけ)
【近世】
稲橋村の豪農。古橋家は、飛騨国の工匠出身で、初代義次の祖父源蔵の時代に美濃国中津川村(現岐阜県中津川市)に移住したという。初代義次は、恵那郡茄子川村(現岐阜県中津川市)にしばらく移住した後、享保2(1717)年に共同出資で稲橋村の名主八郎右衛門から居屋敷・酒株・酒造道具を購入し、義次は同村に定住した。同家は義次と2代経仲の時代に酒造業と金融業を行うとともに、土地集積を行っていった。また、義次の通称源六郎は歴代当主の通名となっている。経仲は稲橋村の百姓代となり、3代義伯は名主となり、以後同家は代々同村の村役人を務めた。4代義陳の時代には、天明の飢饉により多くの村人が没落・離村する事態となり債務が焦げ付き、質業や金融業は破綻したため、新たな経営を模索し、鉄店の開業や味噌の醸造を開始したが、経営は安定せず、瓦の製造や絞油業、商品作物や加工品の集荷販売に力を入れた。文政元(1818)年には名主義陳らと稲橋村の小前百姓との間で村方騒動が発生し、義陳は同3年に名主を退役し5代義教へ家督を譲っている。義教の時代も同家の経営は悪化していき、同11年段階における古橋家の借金は900両余りに達し、借金の返済金を捻出するために同10年に大黒講を開催している。このような危機的な状況で本家の再建のために家政改革を推進したのが、義教の従兄弟で別家の美濃屋源次郎であったが、改革の効果はすぐにあらわれず、天保2(1831)年に義教は隠居し、6代暉皃が跡を継いだ。暉皃は、源次郎の意見を仰ぎながら家政改革を押し進め、同9年に大黒講の掛金の支払いを完了し、小作料や手作地からの収入が増加して、醸造業も急速に伸びたことで経営が安定し、弘化4(1847)年に借金を完済している。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻352ページ