(ふろ)
【民俗】〈住生活〉
風呂は別棟に作られることもあったが、母屋の入口近くのニワに置かれるのが一般的で、五右衛門風呂とヘソ風呂が主に使われた。五右衛門風呂には2つのタイプがあり、1つは地獄風呂といって、中華鍋を裏返したような鉄鍋を土クドの上に据え、その上に木桶の枠を乗せたものである。木桶枠と鉄鍋の間には水漏れしないように縄を詰めた。この縄はワラや布を水に浸けて柔らかくし、小糠をまぶして撚って作ったもので、隙間に差し込んで金槌で叩き、しっかりと固めた。この縄は半年から1年ぐらいで新しいものに取り換えた。湯船に入るときには鉄鍋が熱いので、サナとかウキブタと呼んだ円形の浮き板に乗った。子どもは危ないので一人では入らせなかったという。もう1つのタイプは鉄釜を湯船にしたもの(写真)で、口縁部は丸く、下にいくほど尻すぼまりになっていた。周りを石灰で固めて固定し、湯船の周囲には煙道を作った。こうすると下から火を焚いたとき、煙が回って効率的に湯が沸いた。入るときにはやはりウキブタを使った。ヘソ風呂は、底板のついた木桶の横から鉄釜を差し入れたもので、へそのようにみえることからこの名がついた。五右衛門風呂は水量が少なくても差し支えなかったが、ヘソ風呂は少なくともヘソ(焚き釜)が隠れるくらいの水が必要だった。風呂に水を入れるのは子どもや新嫁の仕事で、井戸から水を汲み、バケツに入れて天秤で運んだ。何往復もしなければならず、誰もがつらい作業だったと口にする。風呂の水は全部を替えるのではなく、少なくなった量を足して沸かしていた。これをカエシ風呂という。また隣近所や親戚が交互に風呂を沸かして入ることもあり、モヤイ風呂といった。多くの人が風呂に入り、しかも「出洗い」はせず、湯船の中で体の垢を落とすので、湯は「浮いた垢や汚れ」でいっぱいだった。このような風呂の落し水は良い肥料になるため、ホーレイという水槽に溜めておいた。〈住生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻422ページ、16巻408ページ