(ぶんけ)
【民俗】〈社会生活〉
かつての農家の次三男は、ホンヤから援助を受けて分家(シンヤ)に出るか、外へ出て自立するか、婿養子に行くかの選択であった。耕地が限られているムラでは零細農家が多く、よほどシンショウの良い家でなければ分家を出せなかった。鴛鴨や桝塚東(上郷地区)では分家に出す場合には家を建ててやったが、田畑を与える余裕がなく、後は分家の自力で生活していったという。千足(挙母地区)、古瀬間(高橋地区)・西岡(高岡地区)など、平野部で農地や経済に余裕のあるムラでは、分家のために家を建て、耕地や山林も分与した。ホンヤが分家に仏壇を作ってやることはほとんどなく、古瀬間、鴛鴨、白川(藤岡地区)では分家に出た人が亡くなると仏壇を買い、分家に出た人がシンヤの初代となった。白川はシマ単位に念仏講(葬式組)が組織されているが、家に仏壇のないシンヤは念仏講に参加できなかった。なお、商店では奉公人を分家として出す場合もあった。〈社会生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻542ページ、16巻501ページ