(へいじのらん)
【古代・中世】
平治元(1159)年12月に京都で勃発した内乱。後白河院や二条天皇の側近などの権力闘争が、有力武士を動員しての武力衝突に至ったもの。このうち敗北した源義朝の軍勢には三河国の「重原兵衛父子」が加わっていたとされる。重原荘を苗字の地として、現地支配などに関わる武士であろう。彼らは源氏の下に組織された武士のようにもみえるが、重原荘が天皇家領荘園であった可能性が高いことを考慮すれば、むしろ院近臣の動員によって参戦したとみるべきであろう。そう考えれば、のちの承久の乱における京方への参加とも矛盾しない。また、この乱のあと、三河守の平頼盛は恩賞として尾張守に異動するが、そのあと約半年の間、三河守は任命されないままであった。その背景には、三河を実質的に支配しようとする後白河院権力と平清盛、二条天皇の近臣たちの駆け引きがあったと考えられる。この乱はさまざまな形で三河にも影響を及ぼしていた。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻203ページ