平勝寺扁額

 

(へいしょうじへんがく)

【美術・工芸】

縦51.0cm 横24.3cm 厚1.8cm。檜製の一枚板に「平勝寺」の3字を、文字の中心を蒲鉾状に盛り上げる「布袋彫り」の手法で彫り出している。板の側面は何れも斜めに削られており、元は別材による額縁状のものが付けられていたものと思われる。裏面には薬研彫りによる「元徳二年庚午八月□日書之」、および「開山法晏(花押)」「散位従四位下藤原朝臣行尹」の3行があるとこれまで紹介されてきているが、現状では年紀銘の「元徳」の下「二年庚午八月□日」は判読できない。筆者銘に当たる「散位従四位下藤原朝臣行尹」の「行尹」は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての能書家世尊寺行尹(1286~1350)とされる。平勝寺の縁起によれば、元弘元(1331)年後醍醐天皇第三皇子平勝親王と関白二条良基が都の元弘の乱を逃れて足助氏の元に身を寄せていたおり、ある夜現れた鳳凰のお告げに随い、当時笠置山にあった後醍醐天皇の都への還幸を大悲密院の観世音菩薩に祈願したところ、その願いが叶ったという。朝廷からは、菊桐の御紋章と太刀一振りとともに、扁額一面を賜り、寺号を鳳凰山平勝寺と改めたことが知られる。年代が前後して矛盾するものの、寺伝によれば、本扁額こそが、この世尊寺行尹の筆になる「平勝寺扁額」とされ、同寺には、その折に賜った太刀一振も今に伝えられている。県指定文化財。


『新修豊田市史』関係箇所:21巻411ページ

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