平内入道  生没年未詳

 

(へいないにゅうどう)

【古代・中世】

高橋荘の有力者であった得光氏の作人。得光氏は矢作川東岸の東方にある得光名を拠点とする、中条氏の被官であったと思われる。平内入道はその下で耕地を耕作する権利を認められ、年貢を納める立場にあった。得光氏からは「新百姓」とも呼ばれている。永和4(1378)年に得光氏が猿投社の料所の竹下田にいた作人を追い払った時、代わりの作人として押し込もうとしたのが平内入道であった。この人物が、中条秀長のもとで猿投社の造営に関わった平内大夫入道善阿の一族であれば、彼らはもともと東方の矢並郷などに耕地を保有する有力な農民であり、それが得光氏のような政治力のある地頭の被官と結びついて、高橋荘全体により多くの耕地を獲得しようとしたのであろう。中条秀長が猿投社造営にあたって善阿に期待した財力が、高橋荘内でどのように形成されていたのかをうかがう手掛かりともなる人物であろう。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻316ページ