(ほううんじほんどう・さんもん)
【建築】
土橋町(挙母地区)。当寺は、天文年中(1532~55)覺譽上人久傳が小庵を草創し、明暦元(1655)年に須藤六兵衛が現寺地を与えて堂宇を建立し、浄土宗とした。寛政3(1791)年7世竜善が再建を始め、8世深譽代に現本堂(写真)が完成した。山門は、建築様式からみて19世紀初期とみられる。本堂は、桁行3間、梁間6間、寄棟造、桟瓦葺、一間向拝付、南面建ち。間取りは、堂内前方2間半の30畳と後方両脇に4畳半の脇の間を加えた凹字型部分を外陣とし、その後方中央の間口1間、奥行3間半を内陣とし、その両脇では内陣前面より1間半奥に位牌の間の前面を造り、一段上げて間口1間、奥行2間を位牌の間とし、内陣と位牌の間の床高を同一とするため、両者が一体化して凸字型の内陣を形成している。向拝は、柱上に虹梁を渡し、連三斗を置き、主屋との間に繋虹梁を渡す。内陣では、現在前面より2間半と3間半後方に各2本の四本柱を立て、内部に須弥壇を設けて本尊仏を安置し、折上格天井を張るが、当初は前2本の丸柱を来迎柱として仏壇を前方に出したとみられる。山門は、切妻造、桟瓦葺、四脚門である。正面では、控柱間に虹梁を渡し、柱頂に木鼻状の材を十字に組み、この上に連三斗を載せ、中備を正面で詰組、側背面で蟇股を入れて軒桁を支える。主柱間では冠木長押、方立を入れて両開き桟唐戸を吊り、妻には虹梁大瓶束を入れる。この門は、木柄が太く手の込んだ豪壮な門である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻16ページ