(ほうえいじしん)
【自然】
震央は北緯33.2°、東経135.9°、マグニチュード8.4と推定され、被害の著しい地域は高知県から和歌山県を経て静岡県にまで及び、市域の震度は5~6と推定される。愛知県での被害は大きく、尾張では壊家のほか、地裂より泥水の噴出があり、名古屋城の土塀や櫓の多くが損傷した。津島村(津島市)では家屋全半壊170棟、枇杷島(名古屋市西区)では東の大橋中程の4.5間がつぶれ、熱田(同市熱田区)でも御殿の長屋がつぶれ、熱田社内の常夜灯の石灯籠が西へ倒れたとされる。知多郡では大野(常滑市)、常滑(同市)などで家屋や人の被害があり、三河各地の城や宿場で被害のなかったところはない。吉田(豊橋市)でも社寺や土蔵、町家など半壊程度の被害が多数あった。津波は土佐(高知県)の被害が大きく流出家屋1万1170棟、溺死者1844人、尾鷲(三重県)では溺死者1000余人であり、愛知県内でも渥美の堀切や池尻、田原(いずれも田原市)、吉田(豊橋市)、三河湾沿岸で家屋流失や田畑が冠水するなど、大きな被害を引き起こした。また静岡県の細江村など浜名湖周辺では沈降が起こり、土地が水浸しになった。湖口の新居では、大地震で大波が三度打ち上げ町屋340余軒つぶれ、今切渡船が4・5日止まったとされる。東海道の景勝潮見坂で有名な白須賀宿は、この地震津波で大被害を受けた結果、宿場ごと高台へ移転した。発掘調査では津波堆積物も確認されている。その半面大須賀町では地震で土地が隆起し、横須賀湊の使用が難しくなった。宝永地震の発生後の11月23日には、富士山が噴火し、宝永山ができた。
『新修豊田市史』関係箇所:23巻663ページ