防空体制

 

(ぼうくうたいせい)

【近代】

第一次世界大戦以降、日本でも飛行機による空襲への対応が課題として認識されるようになり、1920年代後半から各地で防空演習が行われるようになった。昭和3(1928)年3月の大阪防空演習を皮切りとして、名古屋、北九州、水戸付近と全国各地で防空演習が実施されることとなった。市域でも防空演習が行われるようになり、例えば昭和8年3月9日、10日に愛知県下で一斉に行われた防空演習では、常設ではないものの挙母町で中村寿一町長を団長として青年訓練所生200人による防空防護団が組織され、灯火管制などが行われた。昭和11年になると市域の各町村で常設の防護団が設置されるようになった。防護団は、陸軍の指導のもと国民が行う防空を地域で担う団体であり、防護団の結成は山村部にも及んだ。昭和11年10月に設置された猿投村防護団は、平時には防護の準備・訓練を行い、空襲や震災、火災などの時には主として村の防衛救護を行うことを目的としていた。各町村における防空演習は、この防護団を中心に行われることとなった。昭和12年に防空法が制定され、国民が行う防空の主管が陸軍省ではなく内務省であることがはっきりすると、内務省は陸軍が指導する防護団と警察・消防との併存状況解消を企図し、昭和14年の警防団令の制定により、防護団と消防組を統合した警防団を結成した。警防団は地方長官が設置し、指揮監督は警察が行うもので、市域の町村に設置された警防団も、それぞれ所轄警察署が管轄することとなった。そして警防団発足とともに、国民が行う防空を担う最末端組織として家庭防護群が組織された。額田郡下山村警防団第1分団は、昭和15年9月に行われた防空演習の前に住民に注意喚起を行うなかで、敵飛行機は防空施設が完備されている都市や軍事施設には容易に近付けないため、農山村の人心混乱や山林資材の焼却を狙って山間部へも爆弾が投下される可能性があると説明している。こうした説明をすることによって、山村部においても家庭防護群員の防空への積極性を引き出そうとしていたことがわかる。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻621ページ、11巻113ページ