芳友寺本堂

 

(ほうゆうじほんどう)

【建築】

芳友町(石野地区)。明治11(1878)年の芳友寺財産目録によれば、由緒は、天平年間(729~49)に堂庵がこの付近に存在していたと伝え、その後、天文年間(1532~55)には山路村大洞の地から南12丁の、井ノ口(現在地)に移して茅葺の草庵を建て、密教の堂守が移り住んだという。寺蔵の本尊名号は天文8(1539)年証如から、浄友に下賜されたもので、この時、本願寺派として改宗され、浄友は開基となる。3世教雲の代に本堂、経蔵等を建立したという。その後、棟札によれば元禄2(1689)年に再建して、同14年に天井を張ったとされるので、この時に本堂が建立されたことが分かる。現本堂は、棟札によれば宝暦12(1762)年の再建とあるが、内陣部分に古い意匠が見受けられる。さらに、文化10(1813)年頃に茅葺を瓦葺に改めている。本堂は、桁行実長7間、梁間実長7間、寄棟造、棧瓦葺、向拝1間(実長3間)付の中型の真宗本堂である。間取りは、前半の奥行2間を外陣、その奥1間を矢来内とし、その正側三方に半間幅の濡縁を付ける。堂後半は中央に間口3間、奥行3間半の内陣、その両脇に間口2間、奥行3間の余間を配し、さらに南余間の外側には半間幅の縁、北余間外側には1間幅の下屋を設け、堂背面には奥行1間の後堂を配す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いた後門形式を採用する。柱は来迎柱を円柱とする他は面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間、来迎柱の柱間に用いられている。外陣外廻りは正面の中央柱間に双折桟唐戸を吊る。内陣および余間正面は柱上に三斗を置き、内法上に高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣・余間境は前より 1 間半の位置に角柱を立て、内法上を漆喰小壁とし、柱間は当初建具で仕切られていた。天井は外陣と矢来内と余間を棹縁天井、内陣を小組格天井とする。この堂を復原すると、内陣と余間の奥行は実長 1 間半と狭くなり、当初はこの位置で余間仏壇と脇仏壇の前端に框を一直線に揃えた通し仏壇の形式であったと推察される。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻103ページ