(ぼくしょどき)
【考古】
土器や陶磁器に文字が墨書された土器。墨書する行為は日本列島に墨や筆が入ってきてから始まったとみられ、弥生土器や古墳時代の土師器にも墨書らしき墨痕の認められる事例がいくつかある。しかし、それが一般化したのは古代以降で、特に8世紀後半~9世紀にかけて土器や陶器への墨書が畿内を中心に各地で顕著となった。市域では梅坪遺跡から「四」(写真上)「人」などの一文字が底部外面に墨書された須恵器杯が出土しており、かつ出土地点がまとまっているので、文字を書くことができた集団がいたと考えられている。また、寺部遺跡では溜池遺構から多量の墨書土器(写真中)が出土していて、水の供給やその工事に関わる祭祀が執り行われていた可能性がある。このように古代の墨書土器は一文字程度が多いため、意味が取りにくいという問題がある。一方、水入遺跡では「公」「公寺」と墨書された須恵器が複数出土している。仏具もあることから、小規模な寺院の仏事に関わるものとも考えられ、墨書内容と出土状況から墨書が行われた目的をある程度絞りこむことができる。これらの墨書土器は平地の遺跡に多い傾向がみられるが、下山地区の蔵平遺跡や栗狭間遺跡などの9世紀代の山間部集落からも出土し、出土土器全体に占める割合が高い点も注目されている。さらに東海地域の特徴として、山茶碗などの中世陶器への墨書も顕著であることが挙げられる。ただし一文字や記号、花押などの釈読が困難な事例も多い(写真下:五反田遺跡)。このような墨書は戦国時代以降減少し、近世には陶磁器の所属や所有者名などを記したものが一般的となる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻112・123ページ、6巻395ページ