ほ場整備

 

(ほじょうせいび)

【現代】

既存の水田・畑の区画形状や用排水、農道等の基盤条件をより良いものにする土地改良事業、なかでも昭和38(1963)年に新設のほ場整備事業以降のものを指し、これ以前の明治32(1899)年の耕地整理法に基づくものは耕地整理、昭和24年の土地改良法制定以降のそれは区画整理と呼ばれる。水田のほ場整備は、30a区画を標準に農業機械の導入による土地・労働生産性の向上を目的とした。米の生産調整期以降、ほ場整備では麦・大豆等の畑作物栽培を転作して行うため、暗渠排水等による水田の汎用化が進展した。その後、ほ場の大区画化(50a・1ha等)や担い手への農地利用の集積促進、そして環境へ配慮した整備がその目的に加えられた。ほ場整備では、分散された農地が交換分合によって集団化され、農作業の効率化をもたらす。これが農地の賃貸や農作業受委託の基盤となり、担い手への農地利用の集積を可能とした。他方、畑のほ場整備では、農道整備、地形勾配の修正、区画の拡大・整形、畑地かんがいの導入等を主な目的とした。豊田市の平坦地では、水田のほ場整備が昭和40年代から県営・団体営によって連続的に施行された。それは、兼業化の進展と相まって、水稲作の作業の請負・委託、さらに経営委託を通じて、農業生産組織や農業法人、そして認定農家といった地域農業の担い手形成の基盤となった。昭和60年代には、大区画化も始まり、水田の高度利用(田畑輪換)を可能にする用水のパイプライン化も進展した。他方、ほ場整備というハード面だけでなく、農地利用の集積をはかるソフト面の仕組みもつくられ、水稲作のほか、麦・大豆作等の土地利用型農業の進展がもたらされた。畑地の土地改良も県営で進められ、畑地かんがい・農道の整備等によって、果樹栽培の経営基盤が整えられた。しかし、平坦地のほ場整備された優良農地は、土地改良によって形を整えられ造成しやすいことから、農地転用されて失われることも少なくなかった。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻241・435・574・594ページ、13巻236ページ

【民俗】〈農業〉

今回の市史編さんの民俗調査では、主に昭和30年代以降のほ場整備を含む土地改良について聞くことができたが、戦前からある程度行われていた地区もある。市域平野部の低湿地帯の田は不定形で、3~4畝程度の小さなものもあったが、ほ場整備後は直線の畔で囲まれる「1反田んぼ」「3反田んぼ」が増えたという。ほ場整備に伴って乾田化も進み、ミズタ、ドブタといった沼田(湿田)や、ヌマチ・ドブといった耕作不能な湿地も姿を消していった。市域山間部のほ場整備では、田の形状は棚田のままでも、機械で田を深く掘り、暗渠排水を整え、水持ちのためにカベツチ(壁土)を敷くなどの工夫がなされた。湧き水などのため湿田の多かった山間部では乾田化に重点が置かれていたようで、ほ場整備ではじめて牛耕が可能となったところもある。各地区のほ場整備の際には、用排水の環境が改良・均一化されたが、それぞれの田ごとに独自の暗渠排水が設けられており、撤去には一苦労だったという。〈農業〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻97ページ、16巻45ページ

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