(ほんだこうじ)
【現代】
衆議院議員、県会議員。明治26(1893)年12月15日、上郷村花本(猿投地区)に父本多松三郎、母ちかの長男として出生。挙母尋常高等小学校(現童子山小学校)卒業後、愛知一中から東京の京北中学校に転校、明治45年に同校を卒業した。大正7(1918)年に神奈川県平塚-厚木間でバス路線を開設して業績を挙げたのち、昭和2年9月に愛知県会議員に初当選、4期にわたって議席を占めた。その間、昭和14(1939)年10月から同17年5月まで議長の任にあたっている。昭和17年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙に出馬して初当選したが、アジア・太平洋戦争後の昭和21年に公職追放となり、解除後の昭和27年11月、猿投村教育委員に任じられ、同34年には愛知県選挙管理委員に就任した。この年、翌年に任期満了を迎える豊田市長選挙への立候補を表明、その後、いったんは断念したものの、昭和35年1月に改めて出馬を表明、2月14日に実施された市長選は現職の長坂貞一との一騎打ちとなったが、惜敗した。昭和34年2月の市長選にも立候補したが、トヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)出身の前愛知県議会議員佐藤保に敗れた。昭和39年12月6日、71歳で死去。のちに実子の秀治は「古武士といわれ、ドゴールと呼ばれ、その眼光は鋭く人を射、歯に衣きせぬ振舞いに嫌う人も多かったが、本当は、優しく、人情に厚く、潔癖で、かけがえのない父であった」と語っている。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻443ページ、5巻8ページ