(ほんだしずお)
【考古】
花本町出身の実業家・文化人・古陶磁研究家で、豊田市名誉市民。京都帝国大学を卒業後逓信省に入省し、昭和17(1942)年に内閣技術院第一部長となったが、翌年に退官。郷里に戻ると疎開していた同い年の陶芸家加藤唐九郎と親交を結び、民藝運動を主唱した柳宗悦とも出会い、古陶磁への関心を深めた。猿投の良質な陶土と本多の支援もあって、昭和20年代には加藤唐九郎やその長男の(岡部)嶺男、河村喜太郎・又次郎らの陶芸家が集い、平戸橋に陶芸村の如き風景が生まれた。本多は現在の日進市・みよし市などで窯跡を確認し、昭和30年に「愛知県猿投山西南麓の古窯址群」という報文を『陶説』に発表した。本多が猿投窯の発見者と呼ばれるゆえんである。昭和31年から102歳で亡くなる平成11(1999)年まで、転居した平戸橋町の屋敷で毎年春に催された観桜会では、収集品の公開や自作の狂言の上演とともに、茶席・点心・甘酒などがふるまわれ、その賑わいは平戸橋界隈の風物詩となった。昭和56年には東京の日本民藝館改築に伴い、旧館大広間と柳宗悦の書斎を譲り受けて豊田市に寄贈したことにより、同58年に豊田市民芸館が開館した。昭和53年開館の愛知県陶磁資料館(現陶磁美術館)の建設にも尽力。本多は膨大な収集品を市民芸館や県陶磁美術館などに順次寄贈するとともに、平成6年には本多が民芸の普及のために市に寄付した2000万円を基に、民芸・猿投古窯基金が創設された。弟の文芸評論家本多秋五とともに市に寄贈した蔵書類は、「本多兄弟文庫」として平成10年から豊田市中央図書館にて展示・公開されている。また、市に寄贈された平戸橋町の屋敷は、平成28年から豊田市民芸の森として公開され、市民の憩いの場となっている。たぐいまれな文化人として、市や県の文化振興などに残した功績は誠に大きい。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻98ページ、20巻765ページ