(まえだえいじろう)
【近代】
明治7(1874)年7月2日、加茂郡越戸村の山田家に生まれる(後に前田家へ養子に入る)。福井県立福井中学校を卒業後、東京へ出て土木・建築請負業を創業し(前田組)、鉄道建設などを請け負った。大正期には朝鮮や満州などでも建設事業を行い、国策遂行を担う業者として活躍した。昭和期には東京で土木・建築請負業を展開、建築業界の実力者として、政官財などにも大きな影響力を持った。一方で、郷土の発展にも尽力し、産業振興とともに観光施設の必要性に注目、平戸橋北方の洞が峰に公園を建設、聖観音像や仏像などを置き、六角堂・多宝塔を備えた信仰・観光を兼ねた前田公園を開設する。また、郷社に昇格した越戸灰宝神社に神輿殿・宝庫を新築、鳥居などの改築も含め、境内を荘厳化した(写真:灰宝神社境内の前田栄次郎像)。このうち、宝庫はアジア・太平洋戦争中には国宝の疎開先となった。越戸胸形神社も神殿・拝殿を新築するなど、越戸近辺の開発と信仰設備の整備を進めた。猿投村役場構内に忠魂碑も建築。昭和36(1961)年1月31日に死去。
『新修豊田市史』関係箇所:11巻72ページ
→ 国宝疎開