(まきのとしたろう)
【近代】
文久元(1861)年挙母藩士牧野利幹の長男として挙母村挙母藩邸で生まれる。教育者、南画家、号竹亭。明治2(1869)年挙母藩校崇化館に入学するも閉鎖、同5年に挙母郷学校(挙母学校と改称)に創設と同時に入学、同9年7月第4級卒業後、同10年9月まで鵜沼教に就いて学ぶ。同年10月より挙母学校助教となり、根川学校、春木学校(愛知郡東郷町)、和合学校に勤務した。在職中の同13年から20年にかけ、断続しながら南画を田部井竹香、神谷紫水、柴田芳洲に習う。同19年頃名古屋洋画研究会に入り、野崎兼清に師事し、西洋の鉛筆画(デッサン)を研究する。同23年尋常小学挙母学校に赴任、同年発刊の『挙母学校同窓会雑誌』に「衣里八景」「挙母城郭之図」「崇化館之図」など地元を描いた多くの絵が掲載された。代表作は在りし日の挙母城(七州城)の全体の様子を鳥瞰図として描写した「七州城図」(市指定文化財)で、この図を説明した「挙母城趾図説明」が付属し城内の建物名称やかつての慣習などが記され、郷土資料となっている。また七州城図は、求めに応じて同じ題材の絵を揮毫、掛け軸、屏風など複数の作品が伝わっている。得意とした画題は、馬の絵で「馬の竹亭」と称された。大正5(1916)年挙母尋常高等小学校(現童子山小学校)を定年退職。その後も代用教員、学校林・学校園の栽培指導を嘱託され地域に尽くしたが、同14年に長男の住む長崎へ転居、昭和12(1937)年長崎の路上で倒れ、没した。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻399・403ページ