(まきのとしもと)
【近代】
挙母藩士で藩儒を務め、号を温斎や克斎と称した。文政9(1826)年12月8日、牧野利貞の長男として出生する。長じて藩校へと入学して学問の研鑽を積む。その過程で体調を崩して以後、剣術や弓術の武道にも励むようになった。その後、藩校の「助読」や「記録取調係」を経て、藩政の職務に就いた。明治元(1868)年には挙母藩の参政職、明治3年には挙母藩大属となった。明治5年には加茂郡野口村にある野神社の祠官になる。同年、挙母郷学校の設置請願を中根謙亨らとともに行い、挙母郷学校の開設に携わった。明治10年の愛知県師範学校卒業後には挙母学校に赴任して教鞭を執るなど、当該地域の教育の普及に大きな足跡を残した人物でもあった。明治27年5月4日没、享年68。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻14・63・68・101・376・397ページ