(まきのよしお)
【近代】
明治2(1869)年12月25日、旧挙母藩士牧野利幹の次男として挙母村に生まれる。幼名鈵次郎、洋画家・随筆家。同16年挙母学校高等科を卒業。翌年知多郡大谷学校に勤めるが数か月で辞職した。同19年頃兄敏太郎とともに南画を田部井竹香に、洋画を名古屋洋画研究会にて野崎兼清に習う。その後名古屋英和学校に入学、アメリカ人宣教師クラインの学僕となり授業料を免除され学ぶ。同25年卒業、翌年渡米。英文学研究を目的としていたが、珍田捨巳サンフランシスコ領事の勧めもあり、美術に転向、サンフランシスコにて働きながらマーク・ポプキンス美術学校に入学し、画家を志す。当時は、移民排斥運動がおき、日本人への差別も多くあった。その後、4年余りで渡欧。パリを経てロンドンへ渡った。貧しい生活の中、同34年ロンドンにて雑誌『スタジオ』に作品と略伝が掲載された。これをきっかけに仕事が増え、同40年『カラー・オブ・ロンドン』の挿絵を担当したことで人気となり、『カラー・オブ・パリ』『カラー・オブ・ローマ』が出版され一躍有名画家となる。シルクベールといわれる霧の表現技法を得意とし「霧の画家」と呼ばれた。英文による著作も多く『日本人画工倫敦日記』『幼少時代思い出記』『述懐日誌』等ロンドンで出版された著作は10冊以上あり、随筆家としても名をなす。渡米当初より、故郷へ「太平洋航海日記」「米欧紀行」「英国通信」等、海外での見聞記事を送り『挙母学校同窓会雑誌』に掲載された。義雄の私見ではあったが、挙母の知識層にとって海外の情勢を知る機会となった。また100年以上前のロンドンにて故郷・挙母の美しさをその著書で紹介、東洋と西洋の比較思想論について出版するなど日本文化の紹介に貢献した。昭和17(1942)年戦争のため強制帰国、イギリスで交遊のあった外交官(後外務大臣)重光葵邸に住む。その後、鎌倉に移り、昭和31年10月86歳で没した。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻376ページ