秣場山 

 

(まぐさばやま)

【近世】

碧海郡と加茂郡の境にあった丘陵。周辺村の入会地となっており、争論が繰り返されたため、論地ケ原という通称があるが、資料上は秣場山となっている。宝永4(1707)年の争論では幕府裁許が下され、鴛鴨村・大林村・渡刈村・下市場村の入会とされた。その裁許絵図が今も残っているが、もともと3枚作製され、下市場村に1枚、大林村に1枚、渡刈村と鴛鴨村に1枚渡された。渡刈村と鴛鴨村は隔年で保管することとし、毎年受け渡しの際に渡し証文と受取証文をかわすほど大切にしていた。秣場山は下草などを採集するための場所というだけでなく、新田を開ける場所でもあった。明和8(1771)年鴛鴨村が地先の秣場の新開吟味を岡崎藩から受けるにあたって、大林村との間で境界を確認し、それぞれの山年貢米や面積を書き上げている。秣場山には岡崎藩の御林となっている場所もあり、また天明2(1782)年以降鴛鴨村が3領主の相給となったこともあり、どの村、どの領主といった細かな区分を行い、それを記した絵図も作成している。

『新修豊田市史』関係箇所:8巻180ページ