(まつだいらきよやす)
【古代・中世】
安城松平家嫡流として生まれたが、安城を離れ山中城(岡崎市羽栗町)に独立後、岡崎松平家を継いだ西三河の国衆。初名は清孝。死の8か月前の時点で「安城四代岡崎殿」と称されており、この時点で安城松平家の家督継承者と認識されていたが、安城城主ではなく、岡崎城主であった。『三河物語』では、叔父松平信定の実力に悩まされながらも、安城松平家の家督継承者として家康以前に三河一国を平定した英雄として描かれているが、誇張、創作や記事自体の中での矛盾が多い。彼の事績を知ることのできる確実な史料は極端に乏しい。大永3(1523)年頃、安城松平家の下に結集した一門・家臣らの奉加によって営まれた仏事供養に、山中城主として奉加した。天文3(1534)年6月、猿投神社(猿投町)付近に出陣した際に、同社の「堂塔已上九」棟に火をかけた。同4年4月、安城松平家菩提寺大樹寺(岡崎市鴨田町)の多宝塔建立の大檀那(中心寄進者)となって、逆修(生前に行う自身の菩提供養)のために100貫文を奉加した。同年12月、尾張国守山(名古屋市守山区)において、不慮に家臣阿部弥七郎に襲われ死没した。「松平記」『三河物語』等では叔父信定の陰謀を示唆している。一方、「松平氏由緒書」では阿部大蔵・弥七郎の謀叛としており、守山遠征に至る事情、目的、横死の真相は明確でない。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻486・500ページ