(まつだいらし(おぎゅう))
【古代・中世】
大給(大内町内)を発祥の地とする松平氏。江戸幕府編さん系図によると、初代を乗元といい、以下、乗正-乗勝-親乗-真乗と続く。親乗が永禄7(1564)年に徳川家康に服属するまで、家康につながる岩津-安城-岡崎を拠点とした松平家とは対等の立場にあって、時に敵対した。系図では初代乗元は加賀守と称したというが、確かな史料は伝わらない。16世紀末に、幕府政所執事伊勢氏の被官人として京都で活動する松平加賀守の存在が確認される。そうした活動は、岩津を拠点とした松平和泉守信光と同様であり、加賀守、和泉守という官途からしても両者は同格の立場にあったらしい。この実名不詳の加賀守が大給松平家の人であって、信光の頃にはすでに大給を拠点とした松平氏が存した可能性が高い。文亀元(1501)年に、安城松平家初代親忠の没後初七日に大給松平家一門の者は会していない。一方、これに姻族として加わり連判状に署判した「細川次郎親世」は、永正17(1520)年に外下山郷(松平地区)の「領主」として同郷総鎮守六所神社再建の大檀那(中心的出資者)となり、「源朝臣親世」と棟札に記されている。細川(岡崎市細川町)を拠点として源姓を称していた親世が大給松平家を継承し、乗正を名乗ったと推定されている。親世の通称である源次郎(みなもとのじろう)は、その後大給家嫡流の通称源次郎げんじろうとして継承された。その頃には、郡界川流域の宮石、滝脇などに一門を分出しつつ、大給-細川を結ぶ巴川左岸一帯を一門の勢力下においた。若年で没した乗勝を継いだ親乗は、安城松平家の嫡子ながら岡崎に分出独立した松平清康、安城家の事実上の家督の地位にあった信定の、双方と姻戚関係を結び、独立した立場から岡崎、安城の両松平家に相対した。今川氏による三河統治時代も、国衆として独立した領地支配を大給の地に承認された。桶狭間の戦い(1560年)後、家康が岡崎に独立し、やがて今川氏と絶縁し織田信長と結ぶが、親乗は今川氏と結び家康と敵対した。永禄7年に家康に服属後は、大給の地での居住を認められず、足助町の中之御所に隠棲した。その子真乗は家康の下でいくつかの軍功を立て、大給松平家の再興に尽くした。寳珠院(足助町)には2代乗正、3代乗勝、4代親乗の供養塔が建てられている(写真)。江戸時代、嫡流は大名家としていくつかの地を遷したのち、中期より西尾市に移り、西尾藩主として幕末を迎えた。その他一門の大名家に、岡崎市奥殿町に陣屋を構えて先祖の地大給その他を領地とした奥殿藩、豊後府内(大分県大分市)を拠点とした府内藩がある。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻402・454・478・522・578ページ