(まつだいらしゆいしょがき)
【古代・中世】
徳川創業史の一つ。17世紀後半に賀茂郡松平村(松平町)周辺で成立した。原題、作者とも不詳ながら、その成立には高月院の関与が想定される。最古の写本は旗本松平太郎左衛門家の家臣神谷家の子孫に伝来した。全体の3分の2が家康一代記ながら、1970年代初頭に学界に知られるや、他の徳川創業史にみられない松平氏発祥期に関する独自の記述に研究上の関心が注がれ、「松平氏由緒書」の書名が定着した。外下山郷松平(松平町)中桐の屋敷の井戸をめぐる不思議を中心とした神仏語りに始まり、その住人である土豪松平信森、信茂(信重とも)2代のことを記し、続いて諸国流浪の僧徳翁が信茂の入り婿となって信武と称するまでの子細を語る。信武死後は、弟泰親が信武の幼い兄弟を後見し、兄弟成長ののちは足に障害のある兄を残し、泰親は次男信光を伴って岩津に移ったといい、信武、泰親、信光をもって「三代」と数えるとしている。以後、安城松平氏の歴代を語り、家康の大坂夏の陣勝利を記して「目出(た脱)かりける世ノ中也」で結ぶ。歴史語りのうち、7代清康の死に先立つまでの部分は語り調であり、口承をもとにしているとみられる。歴代につき、神仏の生まれ変わりであるとか、神仏の加護を得て富裕となり、また戦に勝利したなどのことを随所に述べており、神仏語りを織り込んだ歴史語りぶりとなっている。松平に残った長男のその後と子孫についてはその名を含めて一切の記述がなく、家康につながる歴代を述べている点、入り婿を初代とする点は、他の松平創業史と同じである。入り婿初代を迎えた土豪松平氏について道・橋を造る技術に長けた土木集団の棟梁として生き生きと語り、初代を諸国流浪の僧、その名を信武としているのは、他書に類例がなく、江戸時代に流布した徳川氏を清和源氏新田流とする説とは一線を画する。泰親・信光期の発展を遠隔地に進出して土地買得、金融業で成功した有徳人(金満家)として描いているのは、こんにち実証的に明らかにされている初期の松平氏の京都周辺における活動実態と合致している。写本として、神谷家で発見された原本成立とほぼ同じ頃の写本(冒頭部ほか一部欠失)、明治14(1881)年頃に松平村誌準備過程で高月院住職が筆記した写本などがある。刊本は、松平親氏公顕彰会編『松平氏由緒書』同会1994年発行、2010年改訂再刊本がある。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻458・472ページ、6巻498ページ