(まつだいらたつぞう)
【近世】
寛政8(1796)年に生まれ、天保9(1838)年に没した、加茂一揆のリーダーとして知られる下河内村(松平地区)の百姓。家系図に示された同家歴代の法名を信ずるならば、地域の大庄屋を務めるような有力百姓だった可能性が高い。経営の中に農間の割木業など地域の流通・経済と深く関わる内容があり、それゆえ地元の賃雇労働従事者である、いわゆる「買い食い層」ともつながり、それが広域的で従来にない民衆運動である加茂一揆に彼を関与させたとの理解がある。加茂一揆の前哨戦とも考えられる天保4年の割木騒動(九久平村の割木問屋による同品値下げ策を撤回させた訴願闘争)における主導的な役割によって、すでに地域では人望が厚く、弁舌能力の高さ、交渉術の巧みさは高く評価されていた。割木騒動での成功が加茂一揆での頭取抜擢につながったが、一揆勢が巨大化・先鋭化する中で、松平地区で事を収めようとしていた辰蔵の思惑は一揆勢の大勢と矛盾することとなり、辰蔵は一揆勢によって排除(同家は打ちこわしにあう)されてしまう。一揆から離れたものの、当初の頭取として厳しく処断され、江戸で牢死した。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻534・539・544ページ