松平太郎左衛門家

 

(まつだいらたろうざえもんけ)

【近世】

将軍徳川家発祥地とされる松平郷を江戸時代通じて支配した旗本。家格は大名家に準じ、普段は知行所に居住して参勤交代を行う交代寄合四衆。同家に伝わる系譜によれば、徳川将軍家の先祖にもあたる親氏が上野国からやってきて、郷主である松平太郎左衛門尉信重の家を継いだ。彼が死去した際、息子信広・信光が幼少だったので、弟の泰親に家督を譲った。その後、泰親が額田郡岩津城を攻め落とすと、信広に松平郷を譲り、自分は信光とともに岩津に移った。松平太郎左衛門家は、この信広の系統だとされる。信広の子孫尚栄は、天正年間(1573~92)に徳川家康に旗本として召し出されが、天正18(1590)年の家康の関東転封には従わなかった。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで徳川方として従軍、徳川家家臣として立場を回復し、慶長18年に知行を与えられたとされる。尚栄は大坂の陣にも従軍し、大坂の陣後に加増を受けるとともに、松平郷への諸役免除、葵紋の使用および普段知行所に居住し、参勤交代を行うよう命じられたと伝わる。以後、重和・信和・親貞・尚澄・親相・信乗・信言・信汎・頼戴・信暎と続き、明治維新を迎える(写真:歴代墓所)。明治維新にあたり信暎が病気だったため、祖父信汎が当主に返り咲き、明治2(1869)年に信英に家督を譲っている。同家は尚栄が歳首の参府を命じられた由緒に従い、原則隔年で正月に参府している。江戸在留期間は、原則1年間江戸で過ごす大名とは違い数か月で帰郷している。交代寄合四衆は何らかの役を有しており、松平太郎左衛門家は松平郷に遺された松平(徳川)家由緒の建物などの維持を任務とした。江戸後期、財政が悪化すると、家康二百回忌に向け宮や旧跡修復するために御三家や松平の称号を有する者から費用を集め、それを貸し付けて利潤を得ようとしたが、幕府の許可なく行ったため後に罰せられている。ただ、松平太郎左衛門家は、徳川将軍家と祖を同じくするとの由緒があったためか、特殊な家として扱われていた時期もあった。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻51ページ

→ 松平役所