(まつだいらちょうとのがっぺい)
【現代】
第二次世界大戦後の松平村はガラ紡業の好況に支えられ近隣他町村に比較して復興が早く、発展も目覚ましかった。愛知県町村合併計画試案(昭和29年4月)では、人口は7693人を数え、地勢上も合併は困難ということで独立町村とされた。時代に即応した行政の充実を図るため、昭和36(1961)年11月1日に町制施行した。その後、町の主産業のガラ紡業も振るわなくなり、人口は6700人に減り(40年)、町の財政も依存財源が自主財源を上回るようになった。町の給与生活者の70%が豊田市へ通勤するようになり、豊田市との関係が強まっていた。39年5月7日には豊田、猿投、三好、高岡、松平の首長が出席する広域行政懇談会が豊田市役所で開催され、愛知県新地方計画に基づく話合いで市町村合併も話題になり、松平町の合併のきっかけとなった。松平町民も豊田市との合併を望むようになり、町が41年1月に全世帯を対象に実施したアンケート調査では、「合併したい」が87%、「望む合併対象は豊田市」が85%に達した。豊田市にとっても「豊田市総合計画」(41年3月策定)による産業文化都市をめざすために、松平町の豊富な未開発地と自然環境は貴重であった。42年3月20日に松平町は豊田市へ合併申出書を提出し、豊田市長も44年3月13日市議会にて、松平町との合併の具体的な目標時期を表明した。9月には正式な合併協議が開始された。しかし前述のアンケート調査結果で、4分の3以上が岡崎市を希望した3地区があった。郡界川で岡崎市と対面し、中学生の委託通学を実施し、岡崎市へのバス交通が便利な長沢地区は、44年8月に岡崎市との分町合併の陳情書を提出した。町当局と議会は11月23日の全員協議会にて陳情書を協議し、全町合併を確認するとともに、その日のうちに長沢地区で懇談会を開催し説明した。長沢地区は27日には陳情書を撤回した。12月13日、豊田市と松平町は合併を満場一致で議決し、翌年の4月1日に合併を果し、豊田市の人口は18万6970人、面積は290km2へと拡大した。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻158ページ