(まつだいらながただ)
【古代・中世】
15世紀末から16世紀前半に活動のみられる西三河国衆。安城松平家2代。『三河物語』や系図など江戸時代に成った文献ではもっぱら長親とされる。また長親がのち長忠と改名したとする説もあるが、彼が生きた同時代に長親と記した文献は皆無である。享年90余歳とする説が有力である。文亀元(1501)年父親忠没後に家督を継承するも、永正6年(1509)年までに息男信忠に家督を譲った。これよりはやく家督継承の頃に出家し、法名道閲を称していたが、家督譲渡後も大永3(1523)年頃まで安城松平一門の惣領として君臨した。のちに隠居して庵号により棹舟軒とも称された。隠居後も安城松平家の家督継承に影響を保ち、曾孫千松丸(広忠)が天文7(1538)年に岡崎城に帰還するにあたりこれを支持し、意見の分かれた岡崎松平家中をこれに導くのに影響を与えた。市域との関係として、現高月院の建立と六所神社再建への関わりがある。隠居に前後して、母(法名皎月珠光大姉)の菩提所として皎月院(現高月院)建立のために、松平名字の地の根本土豪の血統と考えられる松平信長より松平の土地を買得した。当時、松平の北方の仁王(坂上町)に長期にわたって滞在した。皎月院建立にあわせて皎月院境内に松平氏遠祖の供養塔を設けたらしく、今の高月院境内松平氏墓所に継承されたと考えられる。大永7年に六所神社(坂上町)が炎上すると、安城松平家当主信忠と連名で、同社は「松平一党の氏神、先祖崇敬の霊社」であるとして、同社再建のため、松平一門・一族の「御合力」「御助成」を呼び掛けた。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻486ページ