(まつだいらのぶなが)
【古代・中世】
16世紀前半に賀茂郡外下山郷松平(松平町)に土地を所有していた松平一族。隼人佐と名乗った。「松平氏由緒書」によれば、松平の根本土豪は松平太郎左衛門尉を名乗り、信森、信茂(信重)父子と続き、信茂の入り婿となった旅の僧は信武と称してこの家を継いだといい、この人物を徳川家康につながる初代とし、信武の弟泰親を2代、信武の次男信光を3代としている。松平信光の存在は同時代史料によって確実で、岩津(岡崎市岩津町)を本拠とし、江戸時代以来の通説でも松平3代とされている。先の伝承に従って「信」が松平の根本土豪家起源の歴代通り字であったとすれば、松平信長は太郎左衛門尉家の血族である。ただし、太郎左衛門尉を名乗ったことを示す史料は伝わらない。大永2(1522)年と同4年、松平長忠(松平5代、安城松平家2代)が松平の地に母の菩提寺建立のための寺地することを前提として、松平信長は長忠に田地を売却した。「松平氏由緒書」によれば、16世紀前半頃、太郎左衛門尉家は大給松平家の圧迫を受けて、岩津の松平一族、ついで永正三河大乱を受けての岩津一族没落後は、安城松平家と行動をともにしていた。江戸時代系図史料によれば、信光の孫の代以降に五井(蒲郡市)を本拠とした五井松平家は、五井における初代以来4代にわたって初め弥九郎、家督を継いでは太郎左衛門尉を名乗っており、太郎左衛門尉の名跡は五井松平家に継承された。大永3年頃と見なされる安城松平一門・家臣奉加帳に松平太郎左衛門尉長勝・松平弥九郎信長の五井松平家父子が連記されており、同7年松平弥九郎信長発給長泉寺(蒲郡市)宛寄進状が存在する。隼人佐信長が長勝の養子となるにあたって太郎左衛門尉の名跡を長勝に譲り、五井松平家の創設に関わった可能性が考えられ、隼人佐信長と五井松平家信長との関係が注目される。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻475・542ページ